東京高等裁判所 平成元年(行ケ)123号 判決 1990年7月19日
原告 三井東圧化学株式会社
被告 特許庁長官
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 原告
「特許庁が昭和六〇年審判第九六九六号事件について平成元年三月三〇日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決
二 被告
主文同旨の判決
第二請求の原因
一 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和五一年一〇月二日、名称を「塩化ビニルの水性懸濁重合法」とする発明(以下「本願発明」という。)につき特許出願(昭和五一年特許願第一一七九三三号)をしたところ、昭和六〇年二月二七日拒絶査定を受けたので、同年五月一七日審判を請求し、昭和六〇年審判第九六九六号事件として審理され、昭和六一年五月一三日出願公告(昭和六一年特許出願公告第一八五六二号)されたが、特許異議の申立てがあり、平成元年三月三〇日特許異議の申立ては理由があるとの決定とともに「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決がなされ、その謄本は同年五月一五日原告に送達された。
二 本願発明の要旨
ゼラチン、メチルセルロース、ヒドロキシプロピルメチルセルロース及びJIS K―六七二六の方法に準じて求めた平均重合度及び鹸化度がそれぞれ一〇〇〇~二六〇〇、七〇~九〇モル%である水溶性ポリビニルアルコールから選ばれた水溶性の重合用分散剤と共に、重合用助剤として重合度一〇〇~四〇〇かつ鹸化度二五~五五モル%であり、水に不溶かつケトン溶媒に可溶であるポリビニルアルコールを、該重合用分散剤に対し〇・一~一〇重量倍使用することを特徴とする塩化ビニルの水性懸濁重合法
三 審決の理由の要点
1 本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。
2 本件出願日前の出願(優先権主張 西暦一九七六年二月一七日出願 イタリー国)であって、本件出願後に出願公開された昭和五二年特許願第一五〇七五号(昭和五二年特許出願公開第一一五八九〇号公報)の願書に最初に添付した明細書(以下「先願明細書」という。)には、次のような記載がなされている。また、先願の優先権主張の基礎となったイタリー国の出願明細書にも同様の記載がなされていると認められる。
「塩化ビニル単量体を単独または他の共重合性単量体との混合物の形態で懸濁重合させるに当り、部分加水分解して鹸化価を三〇〇~五〇〇とした平均分子量一〇、〇〇〇~三〇、〇〇〇のポリ酢酸ビニルの存在下に重合反応を行うことを特徴とするポリ塩化ビニルの懸濁重合法。」(特許請求の範囲第1項)
「部分加水分解したポリ酢酸ビニルを他の既知の沈殿防止剤と併用する特許請求の範囲1、2、3または4記載の重合法。」(特許請求の範囲第4項)
「他の沈殿防止剤として完全に水溶性のポリビニルアルコールを使用する特許請求の範囲4記載の重合法。」(特許請求の範囲第5項)
「他の沈殿防止剤として水溶性変性セルロース、例えばメチルセルロースまたはメチルヒドロキシセルロースを使用する特許請求の範囲4記載の重合法。」(特許請求の範囲第6項)
「部分加水分解したポリ酢酸ビニルを使用することにより次の利点がある・・(中略)(ロ) 最終ストリッピング工程において重合体中に保持されている残留単量体を重合法からほとんど完全に除去できるような多孔度が得られる。これは、塩化ビニル単量体が人間の健康に危険であることが明らかにされているのであるから、極めて重要である。」(第二頁右下欄第一〇行ないし第三頁左上欄第一行)
「本発明の目的に適当な変性ポリ酢酸ビニルは部分加水分解法により平均分子量一〇、〇〇〇~三〇、〇〇〇のポリ酢酸ビニルから得ることができる。」(第三頁左上欄第七行ないし第九行)
「反応は例えばメチルアルコール、エチルアルコール、アセトン、酢酸メチル、酢酸エチルまたはこれらの混合物のような適当な溶媒に溶解した溶液中で行われ、生成した変性ポリ酢酸ビニルは部分加水分解処理の終りに揮発性成分を凝固または蒸発させる適当な方法により既知方法で溶媒から分離することができ、あるいは上記反応溶媒に溶解した状態または水乳濁液もしくは水懸濁液として使用することができる。」(第三頁左上欄第一四行ないし右上欄第二行)
そして、実施例番号1b、2bとして、水溶性ポリビニルアルコール一・六kg(塩化ビニル単量体一〇〇重量部当り〇・一〇重量部)と部分加水分解して鹸化価を四五〇にした平均分子量一六、〇〇〇のポリ酢酸ビニル一・二八kg(塩化ビニル単量体一〇〇重量部当り〇・〇八重量部)を用いて塩化ビニル単量体一六〇〇kgを懸濁重合した例、及び、実施例番号3bとして、メトセル六五HG〇・〇八重量部と部分加水分解して鹸化価を四五〇にした平均分子量一六、〇〇〇のポリ酢酸ビニル〇・〇八重量部を用いて塩化ビニル単量体一〇〇重量部を懸濁重合した例が具体的に示されている。
3 そこで、本願発明と先願明細書の実施例番号1b、2b及び3bとして具体的に開示されたもの(以下「先願発明」という。)とを対比検討すると、塩化ビニルの懸濁重合に際し、ストリッピング処理により容易に残存モノマーが除去されるようなポリ塩化ビニル粒子を得ることを目的として、重合用分散剤として水溶性の重合用分散剤にポリ酢酸ビニルを鹸化して得られる特定の化合物(以下、「ケン化PVAC」と称する)を併用することとしている点、先願発明における「メトセル」とは、ダウ ケミカル カンパニーの商品名であって、メチルセルロースを指称することは当業者に自明のことであるから、水溶性の重合用分散剤としてメチルセルロースを用いる点及び水溶性の重合用分散剤に対する「ケン化PVAC」の使用割合の点では、両者は一致しているのに対し、<1>重合用分散剤が、先願発明では沈殿防止剤と表現されていること、及び「ケン化PVAC」が、本願発明では、重合用助剤と規定されているのに対し、先願発明においては沈殿防止剤と規定されている点、<2>重合用分散剤の水溶性ポリビニルアルコールが、本願発明は、JIS K―六七二六の方法に準じて求めた平均重合度及び鹸化度がそれぞれ一〇〇〇~二六〇〇、七〇~九〇モル%のものであるのに対し、先願発明は、完全に水溶性のポリビニルアルコールとのみ規定しているにすぎない点、<3>「ケン化PVAC」が、本願発明では、重合度一〇〇~四〇〇かつ鹸化度二五~五五モル%であり、水に不溶かつケトン溶媒に可溶であるポリビニルアルコールであるのに対し、先願発明では、部分加水分解して鹸化価を四五〇とした平均分子量一六、〇〇〇のポリ酢酸ビニルであると記載しているにすぎない点、<4>本願発明では、特定のポリビニルアルコールを用いることにより、ポリ塩化ビニル粒子の表面に生成する殻が減少するという効果を有しているのに対し、先願明細書には、このような効果については何も記載するところがない点で、一応、相違している。
これらの相違点を以下検討する。
(相違点<1>について)「重合用分散剤」、「沈殿防止剤」及び「重合用助剤」は共に懸濁重合に用いる分散剤に該当するものであるから、これらは単なる表現上の差違にすぎないと認められる。
(相違点<2>について)塩化ビニルの懸濁重合に用いられる分散剤としての水溶性ポリビニルアルコールは、JIS K―六七二六の方法に準じて求めた平均重合度及び鹸化度がそれぞれ一〇〇〇~二六〇〇、七〇~九〇モル%の範囲内のものであることは、当業者の技術常識であるから、先願発明の完全に水溶性のポリビニルアルコールは、本願発明のものと同一と認められる。
(相違点<3>について)先願発明における「部分加水分解して鹸化価を四五〇とした平均分子量一六、〇〇〇のポリ酢酸ビニル」を換算により、その鹸化度及び平均重合度を求めると、四六・六モル%及び一八六であるから、鹸化度及び平均重合度の点では、本願発明のポリビニルアルコールと差違はない。また、その性質としてアセトンに溶解するものでかつ水不溶なものであることは先願明細書の第三頁左上欄第一四行ないし右上欄第二行の記載から明らかである。したがって、「ケン化PVAC」において、本願発明と先願発明とでは化合物としての差違は認められない。
(相違点<4>について)同一の構成要件からなる発明は同一の効果を奏するものであるから、前記<1>ないし<3>の相違点では構成上、本願発明との差違があることを認めることができない先願発明においても、当然、ポリ塩化ビニル粒子は、外殻の減少したものを与えるという効果を達成していると認められる。
したがって、本願発明は、前記先願発明と同一である。そして、本願の発明者及び出願人が、その出願前の出願にかかる先願の発明者及び出願人とそれぞれ同一であるとも認められないから、本願発明は、特許法第二九条の二第一項の規定により、特許を受けることができない。」
四 審決の取消事由
審決は、特許法の適用を誤った結果、同法第二九条の二第一項の規定により本願発明と審決にいう先願発明が同一であると誤って判断したものであり、また、両発明の一応の相違点<2>及び<4>について判断するに当たり、先願発明の技術内容を誤認した結果、右の点について両発明は同一であり、同一の構成要件からなる発明は同一の効果を奏すると誤って判断したものであるから、違法であり、取り消されるべきである。
1(一) 本件出願日は、昭和五一年(一九七六年)一〇月二日である。これに対し、審決の引用する先願(以下単に「先願」という。)がわが国に特許出願されたのは、これより遅い昭和五二年(一九七七年)二月一六日であるが、一九七六年二月一七日イタリー国においてなされた特許出願に基づく優先権を主張してなされたものであるため、本件出願日前の出願として審決で取り上げられているのである。
しかしながら、先願は、特許出願の日から七年以内に出願審査の請求がなかったので、昭和五九年二月一六日の経過により特許法第四八条の三第四項の規定により、その特許出願は取り下げたものとみなされてしまっている。
したがって、先願を特許法第二九条の二第一項の規定にいわゆる「当該特許出願の日前の他の特許出願」として取り上げ、本件出願を拒絶したのは誤りである。
この点について、被告は、特許法第二九条の二には同法第三九条第五項のような明文の規定がないから、他の特許出願が取り下げられても、右特許出願が出願公告や出願公開された事実に何ら影響を及ぼさない旨主張する。
しかしながら、元来取下げとは、何らかの法律行為がなされた後に、それがなされなかった当初の法律状態に復する行為をいうのであるから、少なくとも法律上は、その始めにさかのぼってその効果を生じるのが本来の性質である。
また、特許法第二九条の二第一項の規定も「当該特許出願の日前の他の特許出願」の明細書記載をもって当該出願の拒絶理由とする点において、同様にいわゆる先願を拒絶理由とする同法第三九条の規定に比較して、実質的にはその拡大であるから、たとえ同条第五項のような規定がなくても、同様の法理の適用あるいは類推適用があると解すべきである。
(二) 仮に、先願について特許法第二九条の二第一項の規定を適用することが容認され、それが優先権主張を伴う出願であるため第一国出願の日を援用することができるとしても、右援用が許される根拠は、優先権を定めたパリ条約第四条の要請によるものである。パリ条約の優先権は、パリ条約第四条A第1項に「いずれかの同盟国において正規に特許出願(中略)をした者又はその承継人は、他の同盟国において出願をすることに関し、以下に定める期間中優先権を有する。」と規定されているように、他の同盟国において出願することに関して享有する権利又は利益であって、出願人の特許権取得を(ある場合には取得した特許権をも)保護する趣旨であるから、出願人がその特許出願を取り下げ、特許権付与申請を撤回した以上、優先権もその目的を失い無意味に帰したものといわざるを得ない。そして、同条Bの「第三者のいかなる権利又は使用の権能をも生じさせない。」との優先権の効果についても、優先権享受の本体である出願が撤回され、これにより何らの権利も利益も生じる見込みが皆無となったにかかわらず他人の権利、権能の障害事由としてのみ残存することを容認するがごときことは、およそ優先権制度の目的を逸脱し、法の理念に反することは明らかである。
したがって、本件出願日後に出願された先願を、出願人がその特許出願を取り下げたにもかかわらず、優先権を主張してなされた出願であることを理由に特許法第二九条の二第一項の規定にいわゆる「当該特許出願の日前の他の特許出願」として取り上げ、本件出願を拒絶したのは誤りである。
(三) また、優先権主張によって第一国出願を援用し、当該特許出願日後の出願に係る発明について特許法第二九条の二の規定を適用する場合には、わが国における明細書又は図面の当該記載が第一国出願の際に提出された明細書又は図面の記載と符合するものでなければならず、第一国出願の記載に漏れている部分について第一国出願日を援用することは許されない。その照合のために、特許法第四三条第二項の規定により第一国の「認証がある出願の年月日を記載した書面、発明の明細書及び図面の謄本又はこれらと同様な内容を有する公報若しくは証明書であってその同盟国の政府が発行したものを(中略)特許庁長官に提出しなければならない。」と定められている。
しかるに、本件において先願として取り上げられた昭和五二年特許願第一五〇七五号の出願包袋は、既に特許庁において廃棄されており、現在いかなる書類につき特許法第四三条に規定された優先権主張の手続が取られたか、また書類の内容について確認する手段を失っている。ただ、右出願の公開公報である昭和五二年特許出願公開第一一五八九〇号公報(甲第三号証、以下「先願公報」という。)の冒頭には、「優先権主張一九七六年二月一七日 イタリー国 二〇二四六A/七六」と表示されているが、優先権主張の実体上及び手続上の要件の審査権限は、専ら審査官、審判官にあると解すべきところ、公開公報発行の際は審査段階に至っていないのであるから、公開公報の前記表示は、出願人の主張をそのまま転記したものとみざるを得ない。
したがって、先願について優先権主張が特許法第四三条所定の手続を履践しており、その内容もわが国の願書に最初に添付された明細書及び図面の記載(すなわち公開公報により一般に公開された内容)と一致していることを確認できないから、その出願日は、現実にわが国に出願した日であり、本願発明に対する先願とはなり得ない。
この点について、被告が援用する乙第二号証及び第三号証は、別件において提出された書類であるから、厳密に本件において特許法第四三条の手続を履践した証明書に代用することはできない。
2 審決は、相違点<2>及び<4>について、先願発明の完全に水溶性のポリビニルアルコールは、本願発明と同一であり、同一の構成要件からなる発明は同一の効果を奏する、と判断している。
先願明細書には懸濁重合に用いられる分散剤について、完全に水溶性のポリビニルアルコールとあるのみでその他の説明は一切ない。
しかしながら、エンサイクロペデア オブ ケミカル テクノロジー(第二版)第二一巻第三七五頁(甲第四号証)の塩化ビニルの懸濁重合の項には「この三種の最も一般的な化合物はポリビニルアルコール、ゼラチン及びメチルセルロースである。これらは単量体一〇〇部当り〇・〇五~〇・五部の濃度(phm)で使用される。適用可能なポリビニルアルコールの最小量は分子量により決まり、低分子量重合体(lmw)は〇・〇〇五phmで既に効果的な安定剤であるのに対し、高分子量物質は同じレベルで効果がない。懸濁剤の濃度を増加すると重合体粒子サイズを減ずるようになる。」(第四〇行ないし第四七行)と説明されているから、塩化ビニルの重合の懸濁剤としては、低分子量換言すれば低重合度のポリビニルアルコールが好ましいことが理解できる。また、昭和四八年特許出願公開第七五四八六号公報(甲第五号証、以下「甲第五号証公報」という。)には、「ポリビニルアルコールの重合度は二〇〇~二五〇〇、好ましくは三〇〇~二〇〇〇、とくに好ましくは一〇〇~一〇〇〇である。」(第二頁右下欄末行ないし第三頁左上欄第二行)と記載されている。これらの刊行物の記載から、塩化ビニルの懸濁重合において用いられるポリビニルアルコールは比較的低重合度のもの、特に重合度一〇〇〇以下のものが安定剤として有利に用いられていたことが明らかである。
一方、昭和四六年特許出願公告第二一八九二号公報(甲第六号証、以下「甲第六号証公報」という。)には、その特許請求の範囲に「平均重合度二〇〇~二五〇〇、平均ケン化度四五~九〇モル%で、かつ〇・四%水溶液の曇点が四〇度C以下であるポリビニルアルコールよりなる塩化ビニルの懸濁重合用分散安定剤」(第六欄下から第四行ないし第一行)が記載されており、その実施例はすべて重合度二一〇〇のものである。ところが、甲第五号証公報には、甲第六号証公報に記載されたポリビニルアルコール分散剤は水溶性が十分でなく、得られた塩化ビニル重合体は必ずしも優れた多孔質とはならず、可塑剤の吸収も優れたものでない旨の記載(第一頁右下欄第一四行ないし第二頁左上欄第四行)がある。この甲第五号証公報及び甲第六号証公報の記載は、ポリビニルアルコールの重合度の二〇〇〇程度のものは水溶性で劣り、塩化ビニルの懸濁重合用安定剤としては必ずしも好ましいものでないことを教示している。
さらに、長野浩一ほか二名共著「ポバール」(改訂新版)(株式会社高分子刊行会昭和五六年四月一日発行)第一三七頁ないし第一四七頁(甲第七号証、別紙参照)の第一四三頁の図3には、温度と溶解度の図が示され、そのPVA―四二〇(第一三八頁の表1から粘度二八・〇~三四・〇cpsのもので、第一三七頁第一八行ないし第一三八頁第五行の説明及び第一四六頁の図12からその重合度は二〇〇〇程度のものである。)は、三〇度C程度から溶解度が顕著に低下している。このことは、塩化ビニルの懸濁重合反応の温度付近(本願明細書の実施例1では、五七度Cで重合を実施している。)では重合度二〇〇〇程度のものは比較的水溶性の程度の低いことを示している。
したがって、本願発明で用いる重合度一〇〇〇~二六〇〇の水溶性ポリビニルアルコール重合用分散剤は、本件出願当時比較的水溶性の程度が低く、塩化ビニル懸濁重合用の分散剤としては好ましいものとされていなかったことが理解できる。
このように、先願発明の分散剤としての完全に水溶性のポリビニルアルコールとは、重合度が一〇〇〇以下の低重合度のものを意味すると解され、一方本願発明は、水溶性の比較的高い重合度一〇〇〇~二六〇〇のものであるから、先願発明と本願発明のポリビニルアルコールは、同一ではない。
本願発明の油溶性ポリビニルアルコールからなる重合用助剤と水溶性ポリビニルアルコールからなる重合用分散剤とを組み合わせて使用し、塩化ビニルの水性懸濁重合を行った場合、重合用分散剤が一〇〇〇以下のものと二〇〇〇程度のものとでは、生成するポリ塩化ビニルの性状に大きな差異があり、本願発明において重合用分散剤を特定したことに技術的意義があることは、益子誠一作成の実験報告書(甲第九号証)から明らかである。
したがって、相違点<2>及び<4>について、先願発明の完全に水溶性のポリビニルアルコールは、本願発明と同一であり、同一の構成要件からなる発明は同一の効果を奏する、とした審決の判断は誤りである。
第三請求の原因に対する認否及び被告の主張
一 請求の原因一ないし三の事実は認める。
二 同四は争う。審決の認定、判断は正当であって、審決に原告主張の違法はない。
1(一) 先願は、昭和五二年(一九七七年)二月一六日、一九七六年二月一七日イタリー国においてなされた特許出願に基づくパリ条約による優先権を主張してわが国に特許出願されたものであって、昭和五二年九月二八日に出願公開されたが、特許出願の日から七年以内に出願審査の請求がなかったので、昭和五九年二月一六日の経過によってその特許出願は取り下げたものとみなされたものである。
しかしながら、特許法第二九条の二の規定は、いわゆる先願について出願審査の請求の有無によって処理の確定を待つことなく出願審査の請求のなされた後願を処理できるようにしようとの要請に応えるために設けられた規定であり、先願が出願審査の請求されなかったことにより取り下げられたものとみなされる場合にあっても、そのことにより影響を受けることなく、後願を処理できることを当然に予定して立法されているものと解するのが合理的である。原告主張のように解すると、先願について出願審査の請求がされないときは、最大限七年間は後願の処理ができないことになり、特許法第二九条の二の規定の趣旨が没却され、ひいては特許出願等の迅速な処理も確保できないことになり、特許制度の運用上重大な支障となる。
「特許出願の取下げ」とは、特許出願の係属を解くことをいい、特許出願人の行為によりまたは法律上の擬制によってもたらされる。後者の一つが、出願審査の請求がされないで出願審査の請求期間を経過した場合(特許法第四八条の三第四項)である。特許出願が取り下げられたときは、その取下げ以降その係属を解く効果を生じるもので、特別の規定が存しない限り、始めからなかったものとみなすことになるものではない。特許法第三九条第五項のほかに同法第五二条第三項のような規定が設けられる理由もここにある。
特許法第二九条の二の規定の適用については、いわゆる先願が出願公告又は出願公開される前に放棄され又は取り下げられていれば、出願公告又は出願公開されることはなく、たとえ事実上特許公報に掲載されても法律上出願公告又は出願公開されたことにならない。その反面、出願公告又は出願公開された後にその先願が放棄され又は取り下げられても、その出願公告又は出願公開がなされなかったことになるものではない。
(二) 特許法第二九条の二第一項の「当該特許出願の日前の他の特許出願」がパリ条約にいう優先権を伴う出願であって優先権証明書を提出したものであれば、第一国出願の明細書等とわが国への出願当初明細書等とに共通して記載された発明に関しては、第一国出願の日にわが国へ出願があったものとして取り扱うのが特許庁の実務であり、この取り扱いは特許法第二九条の二の規定の立法趣旨に合致する。
パリ条約による優先権主張を伴う特許出願がわが国へ出願された場合、特許法第四三条第一項の規定による優先権主張の効力は、当該特許出願の願書に最初に添付した明細書、図面に記載されている発明のすべてに及ぶものであり、さらに、特許法第四三条第一項の規定による優先権の主張は、同条第四項の規定によってその効力を失わない限り、当該特許出願に吸収されることとなるのである。
したがって、特許法第四三条の規定による優先権の主張が確立した特許出願においては、優先権と特許出願を分離し別個独立のものとして扱うことはできない(特許法には、優先権主張のみを取り下げることができる規定はない。)のであって、その特許出願が取り下げられたときにも、(一)で述べた特許出願の取下げの解釈がそのまま通用する。
したがって、特許法第二九条の二第一項に規定する「他の特許出願」がパリ条約による優先権主張を伴う出願であって、その出願が取り下げられた場合においても、その取下げが出願公開又は出願公告前にされたものでない限り、当該特許出願は、特許法第二九条の二の規定により特許を受けることができない。
(三) 特許出願の審査については、出願審査の請求を待って行うこととなっているのに対し、特許法第四三条の規定による優先権主張については、そのような規定はなく、当該優先権主張が同条の規定の要件を順守しているかどうかの点検は、出願審査の請求の有無とは関係なく特許庁長官が行い、特許庁長官は、その適否を判断し、当該特許出願について出願公開を行うものである。
昭和五二年特許願第一五〇七五号の出願関係書類は、すでに廃棄されているとはいえ、その公開公報である「先願公報」によれば、「優先権主張 一九七六年二月一七日 イタリー国 二〇二四六A/七六」と表示され、優先権を主張してパリ条約の優先権期間満了前の昭和五二年二月一六日にわが国に出願されたことが判明している。
そして、本件出願についての特許異議申立人住友化学工業株式会社が提示したイタリー国を第一国とする特許出願二〇二四六A/七六を基として、英国へ優先権を主張して出願(出願番号〇四五二二/七七)した際に提出した優先権証明書の複写物(乙第二号証)によって、イタリー国の出願明細書(出願番号二〇二四六A/七六)の記載内容を調査することができる。また、イタリー国は特許制度として無審査主義をとり、形式的要件の審査の後、出願明細書がそのまま特許発明明細書として発行されるから、同じく特許異議申立人渡辺徳廣が提示したイタリー国特許発明第一〇五五八八七号明細書(乙第三号証)及び特許庁が保管するマイクロフイルムによってもイタリー国の特許出願明細書(出願番号二〇二四六A/七六)の記載内容を調査することができる。
そこで、乙第二号証、第三号証について、発明の記載事項を見ると、両者は当然のことながら一致している。そして、乙第三号証の訳文によれば、イタリー国の出願明細書(出願番号二〇二四六A/七六)の記載された発明と、先願明細書(先願公報)に記載された発明は、その内容において一致している。
2 先願明細書には、その特許請求の範囲第4項において部分加水分解したポリ酢酸ビニルを「他の既知の沈殿防止剤」と併用することが記載されており、発明の詳細な説明中には、「他の既知の沈殿防止剤」としてポリビニルアルコールが有効であることが記載(先願公報第二頁左下欄第一〇行ないし第一八行)され、かつ、実施例では、「他の既知の沈殿防止剤」として「水溶性ポリビニルアルコール」を使用することが記載されている。
したがって、先願明細書のこれらの記載を素直に解釈すれば、先願発明における「他の既知の沈殿防止剤」として使用されているポリビニルアルコールが、特許請求の範囲第5項において他の沈殿防止剤として完全に水溶性のポリビニルアルコールを使用することが限定されているからといって、完全に水溶性なる限定が付された特殊なポリビニルアルコールのみであると限定的に解釈すべき根拠はない。
塩化ビニルの懸濁重合の分散安定剤用ポリビニルアルコールには、PVA―C―二二〇―E及びPVA―四二〇が好適なものであることは当業者に周知であり、先願発明における他の既知の沈殿防止剤として使用されるポリビニルアルコールにPVA―C―二二〇―E及びPVA―四二〇が包含されることは明らかである。
また、ポリビニルアルコールの水溶性の程度は、その分子量、すなわち、重合度にのみ原因するとはいえず、その鹸化度にも大きく影響されることは、甲第七号証の第一四二頁第一三行ないし第一四三頁図2、3下第一三行に記載されていることであるから、先願発明のポリビニルアルコールは、その水溶性の点から、重合度が一〇〇〇以下のものであると限定解釈することはできない。
甲第七号証の表2(第一四〇頁)の塩化ビニルの懸濁重合の安定剤として使用されているPVA―C―二二〇―E及びPVA―四二〇は、表1(第一三八頁)によれば、同一の分子量(重合度二〇〇〇程度)である。これらのポリビニルアルコールは、塩化ビニルの分散安定剤として特に開発されたもので、この用途には、一般に重合度が高い鹸化度八〇%、八八%の部分鹸化物が用いられることが「高分子加工」第一八巻第一二号(株式会社高分子刊行会昭和四四年一二月一五日発行)第四四頁ないし第五三頁(乙第四号証)に記載されている。
してみると、先願発明の水溶性のポリビニルアルコールには、重合分散剤として使用されることが周知と考えられる乙第四号証に示されている重合度二〇〇〇程度のものを包含していると解すべきである。
原告の提示する実験報告書(甲第九号証)の実験結果からは、先願発明で使用する重合用分散剤(沈殿防止剤)が完全水溶性ポリビニルアルコールであり、重合度一〇〇〇以下のものと解されるとの結論を導き出すことはできない。
したがって、先願発明と本願発明におけるポリビニルアルコールは同一であり、同一の構成要件からなる発明は同一の効果を奏する、とした審決の判断に誤りはない。
第四証拠関係<省略>
理由
一 請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、二(本願発明の要旨)及び三(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。
そこで、原告主張の審決の取消事由について検討する。
1 先願は、昭和五二年(一九七七年)二月一六日、一九七六年二月一七日イタリー国においてなされた特許出願に基づくパリ条約による優先権を主張してわが国に特許出願されたものであって、特許出願の日から七年以内に出願審査の請求がなかったので、昭和五九年二月一六日の経過によってその特許出願は取り下げたものとみなされたものであること、審決は、本願発明は、その出願日前の特許出願であって、その出願後に公開された先願明細書に記載された発明(先願発明)と同一であるから特許法第二九条の二第一項の規定により特許を受けることができないとしたものであること、は当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第三号証によれば、先願は昭和五二年九月二八日に出願公開されたことが認められる。
原告は、審決は、特許法の適用を誤った結果、同法第二九条の二第一項の規定により本願発明と審決にいう先願発明が同一であると誤って判断したものである旨主張し、その理由として、「<1>元来取下げとは、何らかの法律行為がなされた後に、それがなされなかった当初の法律状態に復する行為をいうのであるから、少なくとも法律上は、その始めにさかのぼってその効果を生じるのが本来の性質である。また、特許法第二九条の二第一項の規定も「当該特許出願の日前の他の特許出願」の明細書の記載をもって当該出願の拒絶理由とする点において、同様にいわゆる先願を拒絶理由とする同法第三九条の規定に比較して、実質的にはその拡大であるから、たとえ同条第五項のような規定がなくても、同様の法理の適用あるいは類推適用があると解すべきである。<2>仮に、先願について特許法第二九条の二第一項の規定を適用することが容認され、それが優先権主張を伴う出願であるため第一国出願の日を援用することができるとしても、右援用が許される根拠は、優先権を定めたパリ条約第四条の要請によるものであるところ、優先権享受の本体である出願が撤回され、これにより何らの権利も利益も生じる見込みが皆無となったにかかわらず他人の権利、権能の障害事由としてのみ残存することを容認するがごときことは、およそ優先権制度の目的を逸脱し、法の理念に反することは明らかである。<3>優先権主張の実体上及び手続上の要件の審査権限は、専ら審査官、審判官にあると解すべきところ、先願についての出願関係書類は廃棄され、先願について優先権主張が特許法第四三条所定の手続を履践しており、その内容がわが国の願書に最初に添付された明細書及び図面の記載(すなわち公開公報により一般に公開された内容)と一致していることを確認できない。」等を挙げている。
そこで、まず特許出願の取下げについて検討すると、特許出願は、特許権の付与(特許査定)を求めて特許庁長官に対し願書を提出する行為であり、特許出願の取下げは、その要求を撤回する行為である。そして、法律行為その他法律要件の効力は、それがなされたときから以前にさかのぼらないのが原則であり、遡及効が認められるのは、特に法律に規定のある場合に限られるから、特許出願の取下げについても、その効力は法律に特別の規定のない限り、取下げがなされたときから将来に向かって生じるというべきであって、このことは出願人が自らの積極的意思により出願を取り下げるか、法律の擬制によって取り下げとみなされるかによって差異はない。
この点について特許法の規定を見ると、同法第三九条第五項には、「特許出願又は実用新案登録出願が取り下げられ、又は無効にされたときは、その特許出願又は実用新案登録出願は、前四項の規定の適用については、初めからなかったものとみなす。」旨規定されており、出願公告の効力に関する同法第五二条第三項にも、出願公告後に特許出願が取り下げられた場合につき同条第一項の権利は初めから生じなかったものとみなす旨の規定が設けられているが、同法第二九条の二第一項の規定の適用については、「当該特許出願の日前の他の特許出願」が取り下げられた場合につき、右取下げの遡及効を認める規定は設けられていない。
したがって、特許法第二九条の二第一項に規定する「当該特許出願の日前の他の特許出願」が当該特許出願後に出願公開されたときは、その後に右出願公開された出願が取り下げられたとしても、その取下げの効力が出願公開前にさかのぼり同項の適用が排除されることにはならないというべきである。
特許法第三九条は、一発明一特許の原則から、二重特許の成立を排除する趣旨のもとに規定されたものであり、同条第五項は、いわゆる先願が取り下げられた以上、二重特許の成立する可能性が消滅しているから、その取下げの遡及効を認めたものであって、同法第二九条の二とはその規定の趣旨を異にする。なるほど、同法第二九条の二の規定は、いわゆる先願の範囲の拡大ともいわれ、当該特許出願に先行する特許出願の存在を理由として後願が拒絶される点ではその趣旨を含んでいることは否定し難いが、同時に右先行出願が出願広告又は出願公開されることを要件とし、その公開内容によって後願を排除する点において、同法第二九条の規定する公知文献の拡大ともいうべきものを含んでいるから、公開時にその特許出願が正当な手続により係属している限り、爾後の手続により何らの影響も受けないとするのが制度の本来の趣旨に合致する。しかも、同法第二九条の二の規定が設けられたのは、出願審査制度の導入と同時であり、いわゆる先願について出願審査請求がなされるか否か等により後願の処理が影響され、後願の妥当かつ迅速な処理が不可能となることがないようにすることをも配慮して立法されたものと理解できることと合わせ考察すれば、同法第三九条第五項に取下げの遡及効を認めた規定が設けられているからといって、同法第二九条の二第一項の適用について、右規定を類推適用する余地はない、というべきである。
そして、優先権主張を伴う特許出願については、これを後願との関係で見た場合、その明細書又は図面に記載された範囲全部に特許請求の範囲記載の発明と同じ先願としての地位の基準日、すなわち後願排除の基準日を与えられるというべきであり、したがって、特許法第二六条及びパリ条約第四条B項の規定に照らし、その基準日は優先権主張日(第一国出願日)であると解するのが相当であり、優先権主張は特許出願に伴うものである以上、特許出願の取下げの効力につき優先権主張の効力を特許出願と別個独立に取り扱うべき理由も法律上の根拠も存しない(優先権主張を伴う特許出願の取下げの効力を判示のように解することはパリ条約第四条の趣旨に反するものではない。)から、その特許出願が出願公開後に取り下げられても、優先権主張の効果だけが出願公開前にさかのぼって消滅し同法第二九条の二第一項の適用を排除することにはならない、というべきである。
これを本件についてみると、先願は、昭和五二年(一九七七年)二月一六日、一九七六年二月一七日イタリー国においてなされた特許出願に基づくパリ条約による優先権を主張してわが国に特許出願されたものであって、昭和五二年九月二八日に出願公開されたことは前述のとおりであるから、先願は昭和五一年一〇月二日に出願された本件出願に対して先願たる地位を有するものであり、その後先願について特許出願から七年以内に出願審査の請求がなかったので、昭和五九年二月一六日の経過によってその特許出願が取り下げたものとみなされたことは、特許法第二九条の二第一項の規定の適用の妨げとなるものではない。
そして、昭和五二年特許願第一五〇七五号の出願関係書類は、すでに廃棄されていることは当事者間に争いがないが、前掲甲第三号証によれば、先願の公開公報である「先願公報」には、「優先権主張 一九七六年二月一七日 イタリー国 二〇二四六A/七六」と表示されていることが認められるから、先願は、イタリー国出願二〇二四六A/七六に基づく優先権を主張して優先権期間満了前の昭和五二年二月一六日にわが国に出願されたことが明らかであるところ、成立に争いのない乙第二号証によれば、同号証は、イタリー国を第一国とする特許出願二〇二四六A/七六を基として、英国へ優先権を主張して出願(出願番号〇四五二二/七七)した際に提出した優先権証明書の複写物であり(このことは、原告の認めて争わないところである。)、同号証には一九七六年二月一七日にイタリー国においてした出願明細書(出願番号二〇二四六A/七六)が添付されていることが認められ、右記載内容(なお、乙第二号証には右出願明細書の訳文が付されていないが、成立に争いのない乙第三号証によれば、同号証はイタリー国特許発明第一〇五五八八七号明細書の複写物であるが、その記載内容は乙第二号証中のイタリー国の出願明細書(出願番号二〇二四六A/七六)の記載内容と同一であり、乙第三号証の訳文により右出願明細書の記載内容を知ることができる。)を前掲甲第三号証により先願公報と対比すると、両者はその記載内容が一致している。そして、先願明細書の記載内容が右先願公報の記載内容と一致していることは、原告の争わないところである。
この点について、原告は、乙第二号証及び第三号証は、別件において提出された書類であるから、厳密に本件において特許法第四三条の手続を履践した証明書に代用することはできない旨主張するが、先願が特許法第四三条の規定する要件を具備して出願されたことは右認定事実から明らかであり、この事実は常に当該出願書類によらなければ立証を許されないとする理由はないから、原告の右主張は採用できない。
したがって、審決が先願につきその優先権主張の効力を認め、先願を特許法第二九条の二第一項の規定する「当該特許出願の日前の他の特許出願」に該当するものとし、先願発明と本願発明とを対比判断したことに原告主張の特許法の適用を誤った違法は存しない。
2 次に、原告は、審決は、本願発明と先願発明との一応の相違点<2>及び<4>について判断するに当たり、先願発明の技術内容を誤認した結果、右の点について両発明は同一であり、同一の構成要件からなる発明は同一の効果を奏すると誤って判断した旨主張する。
そこで、先願明細書記載の技術内容について検討すると、前掲甲第三号証によれば、先願明細書には、審決の理由の要点2記載の技術事項が記載されており、先願発明で用いる「他の既知の沈殿防止剤」(本願発明の「重合用分散剤」に相当する。)のうちポリビニルアルコールについては、特許請求の範囲第5項に「沈殿防止剤として完全に水溶性のポリビニルアルコールを使用する」との記載があるものの、沈殿防止剤の具体的な内容を説明する発明の詳細な説明及び実施例1b、2bにおいては、単に「水溶性ポリビニルアルコール」と記載されているにすぎず、その「完全に水溶性」の意味についても、いかなる温度、圧力等の条件下で何%まで水に溶けるのかという具体的数値による定義は示されておらず、単に「水溶性」でなく「完全に水溶性」のものであることを要する技術的意義についての説明もないことが認められる。
また、成立に争いのない甲第七号証によれば、長野浩一ほか二名共著「ポバール」(改訂新版)(株式会社高分子刊行会昭和五六年四月一日発行)第一四三頁に図2「鹸化度と溶解度」(別紙参照)が示され、その説明として「二〇度Cの常温においては、鹸化度八八%以下のものは殆んど完全に溶解する」(第一四二頁末行、第一四三頁図2、3下第一行)と記載されており、図2を見ると、二〇度Cで鹸化度八八%以下のものの溶解度はほぼ九二%前後であることが読み取れるから、この技術分野では、ポリビニルアルコールの溶解度が九二%程度であれば、ほとんど完全に水溶性であると当業者に認識されていたことが認められる。
右認定事実によれば、先願明細書の「完全に水溶性」という文言には、その水溶性程度につき厳格に限定的意味はなく、溶解度が九〇数%を越えるような高度の水溶性のものを意味するというべきである。
また、成立に争いのない乙第四号証によれば、「高分子加工」第一八巻第一二号(株式会社高分子刊行会昭和四四年一二月一五日発行)には、塩化ビニルの懸濁重合に使用されるポバール(ポリビニルアルコール)に関し、PVA―二二〇―E(重合度二〇〇〇、鹸化度八八%)及びPVA―四二〇(重合度二〇〇〇、鹸化度八〇%)は特に塩化ビニルの分散安定剤として開発されたものであること(第五二頁左欄第175図下第二八行ないし末行)、及び極く一般的には、硬質用軟質用ともに主としてPVA―四二〇が使用されること(同頁右欄第176図下第二〇行、第二一行)が記載されていると認められる。さらに、前掲甲第七号証によれば、その表2(第一四〇頁)には、塩化ビニルの懸濁重合用ポバールとしてPVA―C―二二〇―E及びPVA―四二〇が示され、また、図3「温度と溶解度」(第一四三頁、別紙参照)には、PVA―四二〇が常温(二〇~二五度C)付近でほぼ九七%という高い溶解度を示していることが読み取れるから、PVA―四二〇は常温において高度の水溶性を有するものと認められる。
そうであれば、PVA―四二〇(重合度二〇〇〇、鹸化度八〇%)は、塩化ビニルの懸濁重合用分散剤として最も代表的なものであり、常温において高度の水溶性を有するものであるから、先願明細書の「完全に水溶性のポリビニルアルコール」に相当し、これに含まれるものというべきである。
したがって、本願発明において、塩化ビニルの懸濁重合用分散剤として用いられる「平均重合度及び鹸化度がそれぞれ一〇〇〇~二六〇〇、七〇~九〇モル%である水溶性ポリビニルアルコール」は先願発明の完全に水溶性のポリビニルアルコールと同一のものを含んでいることが明らかであり、先願発明は、本願発明が右構成によって奏する作用効果と同一の作用効果を奏することができるものである。
この点について、原告は、<1>甲第四号証の記載から、塩化ビニルの重合用懸濁剤としては、低重合度のポリビニルアルコールが好ましいことが理解でき、<2>甲第五号証公報と甲第六号証公報の記載から、塩化ビニルの懸濁重合において用いられる分散安定剤としては、重合度一〇〇〇以下のものが有利に用いられ、重合度二〇〇〇程度のものは水溶性の点で劣り、好ましくないことが教示され、<3>甲第七号証には、重合度二〇〇〇程度のPVA―四二〇は塩化ビニルの懸濁重合反応の温度では、水溶性の程度が低いことが示され、これら<1>ないし<3>から、先願明細書記載の沈殿防止剤(塩化ビニルの重合用分散剤)として用いる完全に水溶性のポリビニルアルコールとは、重合度一〇〇〇以下のものを意味すると解され、本願発明で用いる重合度一〇〇〇~二六〇〇のものとは異なる旨主張する。
成立に争いのない甲第四号証によれば、エンサイクロペデア オブ ケミカル テクノロジー(第二版)第二一巻の塩化ビニルの懸濁重合の項には「この三種の最も一般的な化合物はポリビニルアルコール、ゼラチン及びメチルセルロースである。これらは単量体一〇〇部当り〇・〇五~〇・五部の濃度(phm)で使用される。適用可能なポリビニルアルコールの最小量は分子量により決まり、低分子量重合体(lmw)は〇・〇〇五phmで既に効果的な安定剤であるのに対し、高分子量物質は同じレベルで効果がない。懸濁剤の濃度を増加すると重合体粒子サイズを減ずるようになる。」(第三七五頁第四〇行ないし第四七行)と記載されていることが認められるが、この記載は、懸濁剤(本願発明の「重合用分散剤」に相当する。)の添加量は低分子量、したがって低重合度のものの方が高分子量したがって高重合度のものに比べて少量で済むことを述べているにすぎず、原告主張の根拠となるものではない。
また、成立に争いのない甲第五号証、第六号証によれば、甲第五号証公報は、塩化ビニルの懸濁重合用分散安定剤(本願発明の「重合用分散剤」に相当する。)に関するものであり、該安定剤について、「ポリビニルアルコールの重合度は二〇〇~二五〇〇、好ましくは三〇〇~二〇〇〇、とくに好ましくは一〇〇~一〇〇〇である。」(第二頁右下欄末行ないし第三頁左上欄第二行)、「特公昭四六―二一八九二号公報には〇・四%水溶液の曇点が四〇度C以下であるポリビニルアルコールが塩化ビニルの懸濁重合用分散安定剤として好適であることが提案されている。しかしながらこのような分散安定剤は水溶解性がいまだ充分でなく」(第一頁右欄第一五行ないし第一九行)と記載され、右甲第六号証公報(特公昭四六―二一八九二号公報)の特許請求の範囲には、「平均重合度二〇〇~二五〇〇、平均ケン化度四五~九〇モル%で、かつ〇・四%水溶液の曇点が四〇度C以下であるポリビニルアルコールよりなる塩化ビニルの懸濁重合用分散安定剤」(第六欄下から第四行ないし第一行)が記載されていることが認められるが、この記載からは平均重合度が一〇〇〇以下のものがそれ以上のものに比べて相対的に好ましいということと、塩化ビニルの懸濁重合用分散安定剤として使用する重合度二〇〇~二五〇〇のポリビニルアルコールの水溶性は不十分であったという甲第五号証公報記載の発明者の認識を示すにとどまり、右ポリビニルアルコールが重合度一〇〇〇以下のものでなければならないことを示唆するものではない。前掲甲第七号証によれば、ポリビニルアルコールの水溶性の程度は、その分子量、すなわち、重合度にのみ原因するとはいえず、その鹸化度にも大きく影響されること(第一四二頁第一三行ないし第一四三頁図2、3下第一三行)が認められるから、単に重合度の大小によって水溶性の程度が決まるものではなく、この点から、先願発明は重合度が一〇〇〇以下のものであると限定解釈することはできない。
さらに、前掲乙第四号証によれば、「鹸化度八〇%のPVA―四二〇は(中略)第3図に示したように溶解度は二〇~三〇度Cにおいて最大となり、四〇度C以上では溶解度がかえって低下する。(中略)したがって、溶解は常温で行なう方が望ましい。」(第五二頁右欄第176図下第二六行ないし第五三頁左欄第177図下第二行)と記載されていることが認められ、また、前記認定のとおり、乙第四号証には、PVA―四二〇が塩化ビニルの懸濁重合に最もよく使用される旨記載されていることを合わせ考察すれば、塩化ビニルの懸濁重合を行う温度におけるポリビニルアルコールの溶解性が低くても、溶解を常温で行えばこの問題は回避でき、そのことが塩化ビニルの懸濁重合を行う上で妨げとならないことが理解されるから、甲第七号証から重合度二〇〇〇程度のポリビニルアルコールは塩化ビニル懸濁重合を行う温度における溶解性が低いと理解されることを根拠に、先願発明のポリビニルアルコールが重合度一〇〇〇以下のものを意味するということはできない。
したがって、原告の前記主張は採用することができない。
なお、原告は、本願発明の油溶性ポリビニルアルコールからなる重合用助剤と水溶性ポリビニルアルコールからなる重合用分散剤とを組み合わせて使用し、塩化ビニルの水性懸濁重合を行った場合、重合用分散剤が一〇〇〇以下のものと二〇〇〇程度のものとでは、生成するポリ塩化ビニルの性状に大きな差異があり、本願発明において重合用分散剤を特定したことに技術的意義があることは、益子誠一作成の実験報告書(甲第九号証)から明らかである旨主張するが、甲第九号証の記載事項から、原告主張の本願発明の技術的意義を明らかにできても、先願発明で使用する沈殿防止剤(本願発明の「重合用分散剤」)が本願発明のそれと同一のものを含むこと前述のとおりであるから、これをもって両発明の差異の根拠とすることはできない。
したがって、本願発明と先願発明との一応の相違点<2>及び<4>について判断するに当たり、右の点について両発明は同一であり、同一の構成要件からなる発明は同一の効果を奏するとした審決の判断に誤りはない。
3 以上のとおりであるから、本願発明は先願発明と同一であり、本願発明は特許法第二九条の二第一項の規定により特許を受けることができないとした審決の認定、判断に原告主張の違法は存しない。
三 よって、審決の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八九条の各規定を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 竹田稔 春日民雄 岩田嘉彦)
別紙
図2 鹸化度と溶解度
図3 温度と溶解度